「新聞を読め!」とうるさい大人たちに問いたい。その理由はなんなんだ?
odasisは小さい頃から新聞を読めといろんなところから言われてきましたが、今も新聞は全く読みません。
読まないポリシーみたいな面倒臭い思想信条があるわけではなく、単純に読まなくて困ったことが無いからです。必要が出てくれば読みますよ。
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新聞を読む必要性
”新聞読まんやつが大学通るとは思わん。”
”新聞読まんやつは会社入ったら笑われる。”
周りは常に僕にそう言いました。
当然、疑うことは許されません。
でも新聞を全く読まなくても大学に通ったし、会社に入っても今のところそれで困ったことはありません。
会社のミーティングは「新聞等でご存知のとおり…」で始まることも多いのですが、大抵問われるのは知っているかどうかまで。
大人たちが五月蝿く叫んでいた新聞を読むべき理由のほとんどが「知っていないと恥ずかしい」でした。
その程度なら知っているフリでいくらでも凌げます。とりあえず知っているフリをして、トイレに抜けた隙にでもスマホで調べれば良い。
odasisも何度となくそれで凌いできました。(それはそれでアホらしい)
新聞を読まない子供達の知的欲求に苦言を呈したいのも分かりますが、その必要性を整理できていないのにそれを子供達に求めることは無責任だと、そう思うのです。
おまえは将来、日々重要な決断に迫られる経営者になるかもしれない。正しい判断のためには何より情報の扱い方を正しく知る必要がある。
だからこそきちんと取捨された情報が載っている新聞を読みなさい。
↑これは分かります。正しい。こんな風に教育されたかった。
あなたは将来、文学に目覚め、小説家を志すかもしれない。あなたが伝えたいと願うメッセージを生かすも殺すもそれはあなたの文章力次第。そして文章力を鍛えるには洗練された文章をたくさん読むことが大事です。
だからこそ鍛えられた文章で構成される新聞を読みなさい。
↑これも正しい。そのとおりですよお母さん。
Youは将来、テレビ局でバリバリのCreatorになるはずだYo!番組タイトルの付け方はSo Important!
新聞の番組欄で勉強だMy Son!
↑これもまだ理解できます。「知らないと恥ずかしい」より幾分。
知らないと恥ずかしいについて
これは大変根深い問題です。
日本人の日本人たる部分に踏み込む大変デリケートな問題ですが、新聞に限って言うならばおかしいと言わざるを得ません。
あるべき姿の新聞が伝えるものは正確な事実のみであり、それこそが新聞のコンセプトです。
そこから何かを生み出すのはそれを読む社会の構成員である我々。
自分たちが提供した情報以上の責任を新聞は負えないわけです。
「知らないと恥ずかしい」理論は知っていること自体を目的化してしまいます。そこには与えられた事実から何かを生み出す社会構成員としての我々は存在しません。
できれば読んでおいた方が良い
正にゆとり世代を体現する言い訳を並べてきましたが、やっぱり新聞は読んでおいた方が良いと思います。
正しい事実が(最近はそうでもなさそうですが)洗練された文章で書かれているメディアはそれだけで貴重です。
ただし、安易に新聞を読むこと自体を目的化してはいけない。ネットやテレビと同じ土俵で一つの手段として選ばれるべきものであり、紙面の活字だからといって高尚なものと位置付けられるべきものではないと思う、言いたいのはただそれだけです。
何より新聞含め、今の若者たちは大人たちが思っているよりずっと情報の扱い方に慣れていますよ。情報化社会の中で生まれ、その進行とともに成長してきた世代ですから。
社会人3年目のodasisのぼやきでしたとさ。
2016/10/24 odasis