「できる」ことを数えられる人の方が強いと思う。表面的な謙虚さの危険性について。
”英語なんて話せませんよ〜”
”日常会話程度ならなんとか…”
ほんまかよ!?嘘つくんじゃねえよ!
卑屈なodasisは所謂「謙虚な人」を見るたびに勘ぐってしまうのです。
スポンサーリンク
謙虚の弊害
控えめに言うことが謙虚さとして美徳化されがちな日本文化ですが、ここには大きな落とし穴があると思っています。
僕なんてまだまだです。
ほどんど脊髄反射とも言える日本人が大好きなリプライ。いわゆる優等生。
しかしほとんどの場合、その言葉の中に自分の実力の正確な評価は含まれません。ここが危ない。
条件反射的な発言はその時点で思考を停止させます。自分に欠けているものがあるとして、条件反射的な発言はそれ以上の分析を放棄させてしまう。
これこそ表面的な謙虚の美徳化がもたらす弊害です。
「僕なんてまだまだですよ。」と言いながら頭の中ではきっちり評価できている人もいますが稀です。思考回路は言語が規定する部分も大きいですから。
日本語を話す限り日本的な思考回路から完全に脱することは容易ではありません。
できることを数える難しさ
日本の文化では「できること」を言うと嫌われます。「できないこと」を言う方が愛されがちです。
でもね!
成長とか前進なんて「できること」の積み重ねでしかないわけですよ。
「できること」を前面に強調して日本文化と戦えと言っているのではありません。
くだらない表面的な謙遜で思考停止しないで、少なくとも自分の中でくらいは過少でも過大でもない正当な評価をしてあげようよということが言いたいのです。
何だっていいんですよ。
簡単なのは今日1日でできるようになったこと、あるいは実績。
- ブログを書いた
- 曲ができた
みたいな分かりやすい実績も当然ながら
- 〜〜さんと話した
- イヤな上司とケンカした
十分です。徹底的に過去の自分と比較しましょう。
odasisは1年前のに作った音源を聴いたりしますよ。
「今だったらこうするな。」みたいなものが一つでもあればそれは確実に変化です。そして前向きに取り組み続ける限りその変化は即ち成長です。
僕なんてまだまだです…
何がどう「まだまだ」なんだ?
真摯な分析を伴わない表面的な謙虚さは傲慢でしかありません。
日本のコミュニケーションには謙虚の陰に隠れる傲慢がたくさんあるなと自戒も込めて。
2016/11/9 odasis