日本語らしい歌詞について。「察する文化」への考察。
2019/07/18
言語にはそれぞれ適した歌い回しみたいなものがあるとは思うのですが、今回は日本語の歌詞についての私見です。
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察する文化
日本の文化は察する文化だと思っています。
それは同時に隠す文化だとも思います。
トイレの張り紙↓
いつもきれいに使って頂きありがとうございます。
英語なら
Keep clean
伝える側は「ありがとうございます。」という表現で「きれいに使ってほしい」という直接的は要望を隠し、読み手はその要望を察することでコミュニケーションが成立する。
改めて書くとまどろこっしくも見えるのですが、高文脈社会日本において、日本人はそんな遠回りなコミュニケーションを昔から無意識に繰り返しています。
そして、音楽においては直接的な表現を避けるこういう文化・言語の仕組みが日本語らしい表現への近道だと考えたりするわけです。
もちろん、日本語らしさにも捉え方に個人差はあるので、あくまで僕が思う日本語らしさの話です。
説明しすぎない
日本語の特徴として、
というものがあると思います。主語がなくても意味が分かるのはこれに通じるものかもしれませんね。
歌詞においては説明しすぎない詩は日本語が得意とする表現ではないかと思ったりするわけです。
2丁目のコロッケを売る前髪を分けたメガネのあなたが私の初恋の相手でした。
好きなことは分かるのですが、対象が具体的過ぎるので受け側に察する余地がない。(と個人的には思います)
伝わりやすいといえば伝わりやすいのですが、歌詞が具体的過ぎると、それ以外の情報(メロディやアレンジ)が伝わりにくいように個人的には思います。
好きだよと言えずに初恋は ふりこ細工の心(初恋/村下孝蔵より)
意味は伝わりにくいのですが、聴き手が想像を膨らませる余地があるようには感じます。
そこから何を感じるかは聴き手の「察し」に委ねているという意味で日本的な表現と言えるかもしれません。
おわりに
好みの問題と言ってしまえばそうかもしれませんね。
2016/9/5 odasis