「親友」という言葉がちょっと苦手という話。
「親友」という単語の一般的な使われ方があんまり好きじゃない。あくまで単語の使い方の話であって、感情そのものを否定するものではありません。
極主観的な戯言中の戯言なので、共感できなくてもodasisのこと嫌いにならないで下さいね!
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親友の定義
親友(しんゆう)とは、とても仲がいい友人を差す。 同音をもじった派生語に、心から理解し合える友人の事を心友、信じあえる友人の事を信友などが使われることがある。また、悪友も同じような意味で使われることもある。
親友の存在は人間の発達段階で非常に重要とされ、ハリー・スタック・サリヴァンは『The interpersonal theory of psychiatry』(1953年出版)において、児童期(英: juevnile period、4,5~14,15歳)における親友(英: chum)という存在は「癒し」の効果があると説いている。(Wikipediaより)
親友の存在が重要であることは理解します。本当にその通りだと思う。
「親友」の使われ方
その人との関係の濃さや重要性を人に伝えるときに使われると思うんですが、こういう表現を聞くと
”その人が自分にとって「普通」の友人ではなく「親友」であることを人に説明する必要なんてあるの?”
と卑屈なodasisは思ってしまうのです。
大事な存在って決して一言で表せるものではないはずだと思うんですが、「親友」として定義付けることでそれ以上理解することを放棄してしまっているように聞こえてしまうんですね。
それから親友という単語を連発する人に限って、その親友とケンカしたときに相手のどこが不満であったのか分からなくなりがち。
それ以上の相手への理解を止めてしまっているわけですからそりゃそうですよ。
言葉の捉え方は人ぞれぞれだと思うんですが、odasisにとっての親友の定義は
そんなものは存在しないし、存在して欲しくない。
たった2文字の単語に愛すべき人たちへの理解を止められたくないと思っちゃうんだな。
大事にしたい人たちについて
孤独を嘆くodasisですが、失いたくない大事な人はたくさんいます。
- 何気ない一言で気を楽にしてくれる人
- どういうわけか一緒にいて落ち着く人
- 正しい澄んだ知識を与えてくれる人
- 落ち込んで泥酔して押しかけたのに黙って家に泊めてくれた人
- 自分しか分からないと思っていた小さな変化に気づいてくれた人
そもそも言語化すること自体が野暮なわけで。箇条書きしちゃったけどこんなこと本当はやっちゃいけないよな。
大事だと思う人ならば、理性・感性をフルに使って全力で理解しようとし続けるべきだと思うんです。
理解しようとし続ければそんな一言や二言で表される関係なんて存在しないはずだと思うんですよ。
親友は一方通行
大学の友人がさりげなく発した言葉をいまだに思い出すことがありますね。
あぁ。その通りだなと思います。
自分の中で完結していればそれでいいじゃないか。「親友」という単語を封じることで見えてくる大事な人の新たな一面もあるかもしれませんよ!
2017/1/15 odasis