「良い曲」という名の神さまについて。
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作るからには「良い曲」を!
作るからにはあらゆる外部要因を超越するような「良い曲」を作りたいと願うものです。
ここでいう外部要因は、時代とか言語とか再生媒体とか。
そして「良い曲」はさしずめ全知全能の神さまみたいな存在。
そんなものが存在しないことは頭で理解できていても、神さまの存在を容易に否定したくはありません。
音楽を作るようになってから、こんな幼い葛藤をずっと繰り返し、たぶんこれからも繰り返し続けると思うんですが、最近になって少し気持ちの折り合いがついてきたような気がします。
「良い曲」とは?
これ良い曲だねー!
っていう会話も
何がどう良い曲なの?
と聞かれると答えに窮する。っていうかこんなこと言うと嫌われそう。
自分の好みに合っているだけかもしれないし、聴いたシチュエーションが良かっただけのかもしれない。
自分にとっての「良い曲」も他人にとってはそうではないかもしれないし、自分だってその曲を聴いたのが数年前だったら感動しなかったかもしれない。
何が言いたいかというと「良い曲」は場所や時間で変化する生き物のような存在だということです。
感動シーンの音楽は感動するもの
ドラマティックなシーンで流れる音楽が印象に残るのもよくあることですが、そのシーンを観る前に曲単体で聴いたときに同じような感動を得られるかというとそれは分かりません。
耳以外の他の感覚が印象に与える影響はとても大きくて、映像とか匂いとか体調とか、その他いろんな感覚が混じり合って印象に繋がる。
印象的な場面で使われる音楽はその時点で「良い曲」としての優位性を持ってしまう。
その曲が真に「良い曲」かどうかなんてやっぱり分からない。
ヒット曲もライブも
ヒットチャートを賑わす音楽だって同じ。
CDとストリーミングでは好まれる音楽も変わるだろうし、景気や社会情勢やトレンドだって関わってくる。
ライブも同じ。
ライブ盤で音だけ聴いてイマイチでも、映像と合わせると急にカッコよくなったりする。
曲以外の要素で「良い曲」になることだって大いにある。
ライブで聴いて「こんなに良い曲だったんだ…」って思うことだってよくありますよね。
やっぱり…
神さまはやっぱりいない。世界中探してもいない…
「良い曲」という道標を失って無限の絶望が押し寄せる…
しかし不思議なことに、いよいよその事実を理解し始めた頃から少し身体が楽になってきたのです。
恥ずかしながらそれも最近のこと。音に関わる仕事についてからです。
めちゃくちゃカッコいい曲でも使われる場面次第では印象に残らないし、その逆に遭遇することもある。
それに「音が印象に残ってはいけない場面」だってある。
いろんな使われ方を目の当たりにするようになってから自分が崇めていた「良い曲」という名の神さまがどれだけいい加減で気分屋な生き物なのか、そして技術があればある程度その生き物をコントロールできるということを身体で理解できてきたのです。
そうこうするうちに「良い曲」への憧れが少しずつ消えていきました。決してネガティブな意味ではなく。
憧れなくなった以上、もうそんな神さまを追わなくて良いし、作るということ自体が少し気楽になる。
おれはおれだ!
自分らしさっていうのも多分こういうことなんだろうなぁと、神を失って少し大人になったような満足感に浸る今日この頃でした。
2018/8/5 odasis