キャリア・仕事

サウンドクリエイターになるまでの半生を振り返る。【②大学受験まで】

2017/11/02

odasisは現在サウンドクリエイターとして、遊技機のサウンド開発の仕事をしています。

雇われの身ですが好きなことが仕事になっています。

それなりの紆余曲折があったので、ここに至るまでの経緯を改めて振り返ってみようと思う。受験生・就活生・音楽関係の仕事に就きたい方など、少しでも参考になることを祈ろう。

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目次

①中学受験から高校まで
②大学受験まで
③大学入学〜サークル活動
④就職活動
⑤大学卒業〜入社式
⑥社会人1年目
⑦社会人2〜3年目
⑧転職活動
⑨退職〜新天地へ

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ギターを始める

高校1年の終わりに部活を辞め、高校2年からギターを始めました。

カッコ良さそうだったからというのと、ちょっとくらい気晴らしになるんじゃないかというのがその理由。

 

長続きするとは思っていなかったし、ましてやその延長で音屋になるなんて思いもしなかった。

実家におかんのアコースティックギターがあったのでそれを借りて練習。

おかんは若い頃、弾き語りでラジオに出たこともあったそうです。

 

初めて練習した曲はこれ↓

人前で演奏する機会はなく、ひたすら家で伴奏を弾く練習ばかりしていました。

 

 

生活リズムを変える

部活をやめたことで当然ながら時間ができました。

 

立ち止まるのが怖かったodasisはこの頃からスケジュールをタスクで埋め尽くすようになりました。

一種の逃避です。

 

さすがに勉強しないといけなかったので、毎日遅くまで勉強しました。

負け癖が付いた人間は前を走る人を追いかけるのがとても苦手です。

 

受験が終わるまで、晩の9時~10時まで勉強するという生活を続けましたが、動機は成績を上げたかったからではありません。

あとから追いかけるのがイヤだったからです。

 

勉強のスタイルは「完全掌握!」

いろんなテキストに手を出すのではなくて、一冊を完全に把握できるようになるまで反復しました。

考えること自体も好きでしたが、それ以上にテキストの知らない部分を潰し込んでいくという作業の方が楽しかった。

 

数学は名書「大学への数学」を5周。京都大学の過去問25年分を3周やりました。

 

「数学に時間をかけすぎじゃないか?」と周囲からは言われましたがそんなことはありません。

少なくとも2010年当時の国公立大学の入試は、数学ができる人間が強い仕組みになっていました

論理構成力を測る数学はその性質ゆえ、出し手は問題を厳選せざるを得ず、1問あたりの点数が大きくなり、結果としてできる人とできない人の差が開くためです。京都大学などはその最たる例でした。

 

志望校を変える

京都大学を目指そうと思ったのは高校3年になったくらいから。それまでは大阪大学を目指していました。

社会科目を大阪大学に合わせたものだけ選択していたため、京都大学に志望を変えたとき経済学部しか選択肢がありませんでした。(歴史がどうしても苦手だったので地理と公民に逃げていました。)

 

センター試験という阿呆な制度のおかげで針の穴を縫うような選択をすることになったわけですが、「パラダイス経済」と揶揄される京都大学経済学部は当時、法学部と並んで倍率の高い学部でした。

定員も少なく高校・予備校ともに先輩がいなかったため、まるで雲の上のような掴み所のない場所にすら見えました。

 

模試判定と親

大手2予備校が判定模試なるものを2回ずつ開催していましたが、1回目がDとB、2回目がDとCだったような気がします。ちなみにAが一番良い判定です。

B判定が出たときはめちゃくちゃ喜びましたが、残念ながら1回目だけ。

受験生の心境としては判定が下り坂にあることの方がよほどショックです。

 

2回目のD判定には凹みました。無頓着な予備校の先生が様子を見かねておかんに電話してきたくらいです。

自分の中では徐々に手応えを感じてはいるものの、模試の判定もあり親はかなり心配しました。数字にシビアな親父は特に不安がっていました。

 

しかし、当時のodasisは負け戦しかしたことがない癖になぜか勝てるような気がしていました

 

逆らったことのなかった親父にも志望校だけは譲らなかったのですが、どうしてそこまで踏ん張れたのかよくわかりません。

そのくせ、入試直前は恐怖が強すぎて、落ちたときのことはもちろん、受かったときのことすら一切考えられなくなりました。

かといって「絶対合格してやる!」みたいなタフなメンタルも当然ながら持ち合わせていません。

 

「良いイメージを持て!」というアドバイスもありましたがそんなことできるわけがない

心の保険をかけるので精一杯。

 

頭の中は目の前の教材を片付けることだけ。

先のことは一切考えない逃避マインドのままひたすら勉強しました。

 

合格者最低点の6点上

そんなこんなでなんとか漕ぎつけた大学入試。

 

2次試験の数学で大きなミスをしていましたが、結果は合格。

人生で初めて自分の力で勝ち得た結果でした。泣いたことのない親父が泣きました。

 

点数は入学後に返ってきましたが、合格者最低点の6点上。

経済学部の試験はセンター試験も含めて800点満点になりますので本当にギリギリです。

数学のプラスマイナスを書き間違えていれば落ちていたと思うと鳥肌が立ちます。

 

自分をDriveするもの

合格体験記みたいになってしまっていますが、受験を通して得たものは非常に大きかった。

 

きちんとしたプロセスを経て得た人生初の目に見える結果であること。

それは学歴という箔なんかより、身につけた知識なんかよりずっと価値があるものです。

 

それによくわからないけれども「自分を強烈にDriveする何か」が自分にもあるということが分かりました。

第六感なのか、根拠のない自信なのか、あるいは深層心理なのか…よく分かりませんが。

 

しかし、次に同じような感覚に遭遇したとき、それは絶対に逃してはいけないと当時の自分は心に固く決めました。

人生で初めて勝ち得た結果は、そんな自分の中の変化のきっかけになったのです。

 

余談1:通っていた予備校について

部活を辞めたあと、予備校に通っていました。

学校の受験対策がしっかりしていたので、自習室を借りるためだけというのが当初の目的。

 

葦牙予備校という個人経営の小さな予備校。

名物講師の新家先生はTwitterでも謎の発信力を発揮しています。

 

この塾が教えるのは基本的に英語だけ。しかしながらそのノウハウは素晴らしかった。

言語の構造的な違いから教えてくれます。

 

当初、自習室を借りためだけに通い始めた予備校でしたが、英語の授業だけは週に1~2回のペースで受けるようになりました。

授業内容は基本的に英文和訳と和文英訳だけ。単語帳は使いません。

ここに通い始めてからシス単(システム英単語)はほとんど開かなくなりました。

 

その代わりに文章で出てきた単語は全部覚えました。

文脈で覚えるからすぐに定着する。

それに社会情勢や歴史に至るまで、脱線に脱線を重ねる新家流の授業がより一層記憶を定着させました。

 

キミはそんなことも知らんのか?

ってのが先生の口癖。

 

 

余談2:体育祭について

高校3年の夏、学校の体育祭で応援団長なるものを務めています。

これだけ聞くとイケてる青春ですが辛いことも多かった…

 

概要は

  • 高校全学年を紅白にタテ割り。
  • 3年生の各クラスから1人ずつを応援団長として出し、その中で総団長を決定。
  • 紅白それぞれで10分程度の演技(ダンス)を0から作る。

というもの。画に描いたような青春物語。

いまよりよほど社交的だった当時のodasisは総団長になってしまっていました。

 

思い返せば当時のodasisの動き方はリーダーではなくフォロワーのそれでした。

ビジョンを決め・人を動かし・無責任に前だけ向く

そんな動き方ができればもっと上手にできたのかもしれませんが、高校生にボスの器を説いてもねえ…

 

助けに助けられ、みんなの優しさと一部の才覚のおかげで素敵な思い出になりましたよ。

いまでもたまに思い出す。

 

最後に3年生全員で当時流行っていたGreeeenの「キセキ」を歌いました。グラウンドの真ん中で。懐かしい。

 

2017/5/11 odasis

続く。

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①中学受験から高校まで
②大学受験まで
③大学入学〜サークル活動
④就職活動
⑤大学卒業〜入社式
⑥社会人1年目
⑦社会人2〜3年目
⑧転職活動
⑨退職〜新天地へ

 

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